その時、どうだったのか?
以下、体験者のコメント。
「飛行機が落ちたと思った。」
「爆弾が落ちたと思った。」
「空が光ったので宇宙船が落ちて来たと思った。」
(天空に奇妙な光を目撃した人が何人もいたという)
「テポドンが着弾したと思った。」
「六甲山が噴火したと思った。」
「地面から巨大な杭を打ち込まれているような衝撃だった。」
「洗濯機の底のようだった。」
「同じ家の一階と二階が違う方向に捻れていた。」など
震災体験者で作家の小松左京氏によると、「大地の下から、巨大な水圧ハンマーをたたきつけるような、ものすごい上下動と、それにほとんど間を置かずに襲って来た、大地を激しくこねくりまわすような、東西、南北の水平動と、そして、たった10秒間のはげしい震動のピークが収まった時、関西、いや日本屈指の近代的都市ベルトの光景がまったく変わってしまたのだ。」と描写する。たった10秒でいつも見ている光景が「別世界」になった。ここで注意していただきたいのは、初動時の上下動だ。これに関して小松氏は多くの耐震対策は水平運動に対するもので、上下動を考慮していないとする。しかし、直下型ではまず突然激しい上下動がくる。死者の9割近くは地震が始まってから、わずか5秒の間に倒壊家屋の下敷きとなって亡くなった。阪神高速道路神戸線は635メートルに渡って倒壊した。都市ベルトは10秒の間に推定10兆円の資産が消え失せた。震源が遠い南海トラフ地震の場合に、東京は震度5強で横揺れが続く。しかし、東京湾北部地震は直下地震で、まず激しい縦揺れに見舞われると予測される。この事を念頭に東京でのインフラ補強、防火に向けての木密住宅地域の区画整理を早く進めて頂きたい。
住い環境はどうなるのか?
とにかくその瞬間は、何が起きたかわからないのだ。そして、真っ暗に。地震の瞬間は何もできないと考えておいた方がいい。その時に火を消したり、ブレーカーを切ったりという理性的な行動はできないようだ。その時住まいはどうなったのか?
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家具は倒れる。
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インテリアは飛ぶ
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ガラスは割れる
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照明は落ちる
さらに一瞬にして家が全壊したり、1階部分がぺしゃんこになったりした。たった10秒で自宅が無くなる。家が倒壊すると物が取り出せなくなる。家が残ってもライフラインが止まる。都会でライフラインが止まるとジャングル生活以下になってしまう。
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水道から水は出ない、ガスは止まる。
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電気はつかない。家電は動かない。
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電話は通じない。携帯も通話はできない。(データ通信は可能かも)
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下水管も破壊されるのでトイレも流せない。
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連絡手段が無くなり、情報が遮断される。
さらに周りの家や建物が倒壊すると町の風景が全く変わってしまう。火災が起っていたり、夜中だったりすると避難所に行くのに迷ってしまうことになる。
そこから学べる対策は何か?
これらの事がわかっているという事は対策ができるということでもある。
1.家の耐震化
家が倒壊すると、自らの命の危険だけでなく、救助活動、支援活動の妨げにもなり社会悪となる。特に1981年以前の建築基準法改正前の建物は要注意。
2.家具の固定
8割の犠牲者が圧死によることを見る時、家具が固定されていれば助かった人は多い。特に寝ている時が一番無防備なので、寝室に倒れてくるものを置かないようにする。
3.水、食料、緊急時ライト、ラジオなどを用意しておく。情報をキャッチできるようにしておく。フェイスブックなど携帯通話ができない場合の家族、知人との連絡手段を備えておく。
4.自助、共助。
阪神淡路の被災者は30万人以上、1万人の救助隊員だけでは間に合わなかった。自力脱出不可能者の7−8割は近隣の人に救助してもらったことを考えると普段からの近隣の人々との関係がいかに大事かがわかる。「隣の人と挨拶している。それが大きな防災でした。」というコメントがあった。ちなみに、「黄金の24時間」という言葉とおり、初日に救出された人の約7割は生存、2日目は約2割、3日目になると救出された人の約1割しか生存できなくなる。「バールがあればもっと多くの人を助けられた。」とのコメントもあった。バール、ノコギリ、ジャッキが救出時の3種の神器である。
5.情報に関しては、各自がトランジスタラジオを携帯し、小回りの効くコミュティFMを開局することが望ましい。阪神淡路ではNPOが発電機とプリンターを持ち込んで作ったミニコミ紙が大変喜ばれたようだ。
良きニュースは、日本人にボランティアの心が生まれたこと。阪神淡路は「ボランティア元年」と言われ、13ヶ月に延べ140万人のボランティアが動員された。この経験を生かし、2011年の東日本大震災ではさらに効果的に働きが為されていった。ボランティアセンターを立ち上げ現地のニーズとボランティの調整をするボランティアコーディネーターの必要性が強調された。
避難所体験から学べる事は
1.無秩序に入居させるのではなく、はじめにテープして通路を確保する。基本的に世帯別で区画する。高齢者や障害者をトイレ近くに入居させる。
2.トイレ地獄は目に見えているので、多めに緊急トイレを用意する。
3.みなストレスが高く、喧嘩が起きやすいので、余計なトラブルを避けるため禁酒とする。
4.不満がスタッフに向く。しかし職員も被災者であることを理解する。外部ボランティアが来るまでは自分たち入居者で役割分担して生活する。
5.満員で避難所に入れない人もいた。通常、非難対象住民の3割くらいのスペースしか確保できていない。全壊の人を優先にするなど、いずれにしても「前もって」避難所運営委員会を立ち上げて「前もって」話し合っておくと混乱をより少なくできる。
6.食事は給仕する人が先に食べる。炊き出しする人が食べられなくなったケースがあった。東北の場合、配給物資が人数分ないので配らないという行政的な処置があったが、「分かち合う」精神でなるべく小量でも行き渡るようにする。
7.女性、高齢者、障害者への配慮。
8.やはり、リーダーは必要。仕事の分担などリーダーがいないと統率できず混乱が起る。
震災関連死は圧倒的に高齢者が多い。震災を生き抜いても、その後の不便な避難所生活で持病が悪化するなどで死に至るケースが多い。栄養不足から肺炎が多発したという。肉体的負傷だけでなく、震災後には多くの人が心的外傷後ストレス症候群となる。避難所では高齢者や障害者は人格、人権を無視されるような状況に置かれることもある。誰を攻める訳でもなく、健常者でもサバイバル状況の中で、食べる、飲む、排泄する、寝るという生存の基本が制限される中では極度のストレス状態になる。そしてフラストレーションは奉仕しているスタッフに向けられる。スタッフ達も極限状態で奉仕している訳だ。その中で、自力で生活できない人々にはしわ寄せが来てしまう。避難所に指定される学校
や体育館は健常者向けで、障害者や高齢者には厳しい環境となってしまう。阪神淡路の被災地の避難所でもどこの避難所でも意外なほど障害者の数が少なかったという。周囲の冷ややかな目がつらく、どこかへ移動されたのだろう。さてそうすると情報から切り離され、給水や食事の配給がどこで、いつあるのか分からなくなり、貰い損ねてしまう。耳の不自由な人はアナウンスも聞こえない。普段からの繋がりもなければ存在すら忘れられてしまう。西東京のある自治体では高齢者対象のボランティア「見回り隊」を設置、普段から地域の高齢者との意思疎通を図るようにしている。
高齢者に過酷な仮設住宅環境
避難所から運よく仮設住宅に移ることができたとしても、身長140センチの老人にとって、入り口の高さ45センチ、まわりは砂利で車イスでは動けない。ユニット風呂入り口段差30センチ、浴槽の高さ51センチとなると台所の戸袋は床から185センチ。これでは殺人的な住環境。東北の仮設では、バリアフリーの要望から入り口までスロープが付けられた建物もある。利用できる土地の関係から、ショッピングには不便な場所に設置されることが多い。車の無い人は大変な不便を強いられる。救世軍の助けにより仮設住宅の敷地内に商店街が設置されたケースもあった。
子供の心のケア
また、子供の心のケアも大事な課題だ。子供達も心に深い傷を負う。その面で「心のケア」ができるボランティアの存在は大きい。ちなみにクラッシュジャパンでは子供の心のケアプログラム「オペレーションセーフ」を被災地で行っている。先のフィリピン台風でも、現地で訓練されたボランティアによりオペレーションセーフが行われている。
病院はどうなる?
その他、考慮しておくべきは、病院の状況である。以下、阪神淡路大震災の時の病院の状況である。
「朝の検温、朝食など忙しい時間帯が始まろうという、まさにその瞬間だった。各階の詰め所ではガス台で湯を沸かしていた。ドーンという轟音、コックをひねって火を消すのがやっと。あっという間に病室内の衣装・備品ケースが倒れ、ベッドがぶつかり合う。転がり落ちた患者が、うずくまり震えている。余震の危険がある、とにかく患者を廊下に出す事が先決だ。寝たきりの人はマットレスのまま廊下へ、歩ける人はソファへ移動、重症者は広い部屋へ、140名の患者を守る夜勤の看護婦たちは死にもの狂いだった。」
日本の病院は自転車操業で日頃から医者も少ないし、ベッドも足りない。そこに災害時は同時多発的に怪我人、病人が発生し、病院には次から次に負傷者が送られてくる。患者は被災しなかった病院に集中する。24時間救急が途切れず、すでに入院中の患者の治療を同時並行で、次々に運ばれてくる患者の治療優先順位(トリアージ)を決め、処置していかなければならない。
しかも、停電、機材が震災で破壊されたり、職員が被災していたりする。すでに入院している自分でうごけない病人もいる。震災時の病院パニックは目に見えている。入退院をめぐるトラブルも深刻だった。被害の大きい地域では、退院しても帰る家がない。新たな入院患者を受け入れるには、退院者の受け入れ先を確保しなければならず、その対応が大仕事となった。また、水がなければ使用済みの器械類の滅菌ができない。被災地の病院では反省を踏まえて「持ち出し用救急薬品」「人工呼吸器使用患者一覧」「高カロリー輸液中の患者の対応方法」など、非難時の行動マニュアルの作成に取り組んでいるという。災害時にこそ「日常の力量が問われる」ことを痛感したとも言う。是非、次に被災地となる東京でも、これらの貴重な声をシリアスに受け止め備えて欲しい。
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参考文献
「大震災95」小松左京 河出文庫
「神戸発 阪神大震災以降」 酒井道雄編 岩波新書
「地震イツモノート」 地震イツモプロジェクト編 ポプラ社
「都市住民のための防災読本」 渡辺実 新潮新書
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日本防災士機構公認 防災士
一般社団法人 災害支援団体クラッシュジャパン
次期東京災害対策担当
栗原一芳
crashkazu@gmail.com